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<title>三国夢想</title>
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<description>絵師の手による魅力的な肖像（と管理人の駄文）をお楽しみください</description>
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<title>三国列伝―呉・吾粲　　熱き人格者</title>
<description> 吾粲（ごさん）字は孔休（こうきゅう）呉郡烏程の人（？～245）～経歴～呉の将。卑しい身分の生まれだったが、烏程の県長を務めていた孫河（そんか　孫桓（そんかん）の父）に見出されると、順調に出世を重ね、陸遜らと肩を並べるほどに名声を上げた。222年、陸遜が夷陵で劉備を破ると、立て続けに魏軍が侵攻してきた。吾粲は呂範（りょはん）、賀斉（がせい）らとともに水軍を率い、曹休（そうきゅう）を迎え撃った。戦いのさなか
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/gosan.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/gosan.jpg" alt="吾粲（極）" border="0" width="117" height="111" /></a><br /><br />吾粲（ごさん）字は孔休（こうきゅう）<br />呉郡烏程の人（？～245）<br /><br />～経歴～<br />呉の将。<br />卑しい身分の生まれだったが、烏程の県長を務めていた孫河（そんか　孫桓（そんかん）の父）に見出されると、順調に出世を重ね、陸遜らと肩を並べるほどに名声を上げた。<br /><br />222年、陸遜が夷陵で劉備を破ると、立て続けに魏軍が侵攻してきた。吾粲は呂範（りょはん）、賀斉（がせい）らとともに水軍を率い、曹休（そうきゅう）を迎え撃った。<br />戦いのさなか、暴風雨に襲われ、次々と船が沈んだ。河に投げ出された兵士は無事な船に乗り移ろうとしたが、船の兵士は転覆を恐れてそれを突き落とした。<br />だが吾粲だけは配下に命じて、おぼれた兵士たちを救助させた。左右の者は転覆を危ぶんだが、吾粲は「死にかけている人々を見捨てられるものか。転覆したら彼らと一緒に沈むまでだ」と意に介さなかった。<br />戦後、吾粲は会稽の太守に昇進した。<br /><br />235年、吾粲は志願兵を募り一軍を編成すると、呂岱（りょたい）とともに山越の討伐にあたり、大功を立てた。<br />しかし242年、太子の座をめぐってくり広げられた二宮の変で、孫和（そんか）の擁護にまわった吾粲は、対立する孫覇（そんは）や楊竺（ようじく）らの讒言により処刑された。<br /><br />～創作での吾粲～<br />史実ではいぶし銀の働きを見せた吾粲だが、創作での扱いは軽く、『演義』では孫権に招かれた人物の一人として名前が挙がるだけ。光栄のシミュレーションでは長らく登場すらなかった。<br />だが『蒼天航路』では赤壁の戦いから早くも活躍し、なんと苦肉の策を考案したのも吾粲ということにされている。その後も呂蒙らの参謀として中心的な役割を果たしているが、作者はなぜ吾粲を抜擢したのかは大きな謎である。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>三国列伝－呉</dc:subject>
<dc:date>2009-07-03T20:43:56+09:00</dc:date>
<dc:creator>ミニ・ゴールドバーグ</dc:creator>
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<title>三国列伝―呉・陸績　　陸家の麒麟児</title>
<description> 陸績（りくせき）字は公紀（こうき）呉郡呉の人（187～219）～経歴～陸遜と同族。袁術（えんじゅつ）の命を受けた孫策に攻められ、父の陸康（りくこう）は太守を務めていた盧江を追われ、病を得て死んだ。以降、陸績は幼いながらも孫策のもとで頭角を現す。9歳のとき、軍議の末席につらなっていた陸績は、張昭（ちょうしょう）、張鉱（ちょうこう）らが勢力拡大を唱えていると、声を張り上げて孔子の言を引き、徳を欠いた武力には
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/rikuseki.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/rikuseki.jpg" alt="陸績" border="0" /></a><br /><br />陸績（りくせき）字は公紀（こうき）<br />呉郡呉の人（187～219）<br /><br />～経歴～<br />陸遜と同族。<br />袁術（えんじゅつ）の命を受けた孫策に攻められ、父の陸康（りくこう）は太守を務めていた盧江を追われ、病を得て死んだ。以降、陸績は幼いながらも孫策のもとで頭角を現す。<br />9歳のとき、軍議の末席につらなっていた陸績は、張昭（ちょうしょう）、張鉱（ちょうこう）らが勢力拡大を唱えていると、声を張り上げて孔子の言を引き、徳を欠いた武力には賛同できないと反対した。陸績の非凡さに張昭らは感心した。<br />陸績は雄々しい風貌を備え、天文から数学までありとあらゆる書物に通じた博学ぶりで、&#40848;統や虞翻（ぐほん）らはるかに年上の者にも一目置かれ、親しく付き合った。<br />だが直言をはばからなかったため孫権にはけむたがられ、僻地へと飛ばされた。<br />学者肌だった陸績は軍務を投げ出し、天文学に没頭し、魏に先駆けて正確な暦を作った。豊富な知識から自分の命日を予測し、その日から60年後に天下は統一されるだろうと予言した。<br />麒麟児の宿命か、33歳の若さで世を去った。<br /><br />～逸話～<br />幼いころの逸話をもうひとつ。<br />袁術に面会したとき、陸績は出されたミカンを3つふところに忍ばせたが、おじぎをした拍子に落としてしまった。<br />袁術が「陸家の坊っちゃんはもてなしで出されたものをふところに入れるのかい？」とからかうと、陸績はひざまずき「母のために持ち帰ろうと思いました」と詫びた。<br />とっさの機転と孝行の心に袁術はいたく感心したという。<br /><br />どうでもいいが「覇-LORD-」の袁術だったら問答無用で斬り殺していただろう。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>三国列伝－呉</dc:subject>
<dc:date>2009-03-27T20:32:29+09:00</dc:date>
<dc:creator>ミニ・ゴールドバーグ</dc:creator>
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<title>三国列伝―呉・朱治　　呉の基盤を築いた宿将</title>
<description> 朱治（しゅち）字は君理（くんり）丹陽郡故&amp;#37155;県の人（156～224）～経歴～孫堅の代から仕える呉の宿将。朱然（しゅぜん）の養父。孫堅のもとで数々の軍功を立てる。孫堅が戦死すると孫策をつれ袁術（えんじゅつ）に身を寄せた。だが袁術の能力を見限り、孫策に江東を占拠するよう進言した。江東は劉&amp;#32327;（りゅうよう）が領しており、その膝元で暮らしていた孫策の母と弟たちを朱治は救出し、無事に逃がした。さらに呉郡の
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/syuti.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/syuti.jpg" alt="朱治（極）" border="0" /></a><br /><br />朱治（しゅち）字は君理（くんり）<br />丹陽郡故&#37155;県の人（156～224）<br /><br />～経歴～<br />孫堅の代から仕える呉の宿将。朱然（しゅぜん）の養父。<br />孫堅のもとで数々の軍功を立てる。孫堅が戦死すると孫策をつれ袁術（えんじゅつ）に身を寄せた。だが袁術の能力を見限り、孫策に江東を占拠するよう進言した。<br />江東は劉&#32327;（りゅうよう）が領しており、その膝元で暮らしていた孫策の母と弟たちを朱治は救出し、無事に逃がした。さらに呉郡の太守・許貢（きょこう　のちに彼の食客が孫策を殺した）を破り、呉郡を治めた。<br />孫策が死ぬと朱治は重臣中の重臣として扱われ、彼への贈り物は他の諸将と比べて厚く、また出仕するときには孫権自ら出迎えもした。<br />朱治もまた長く仕える孫家への忠誠は厚く、まるで自分の一族のように感じており、粗暴なふるまいの目立つ孫翊（そんよく）をさとしたり、娘が曹操の子に嫁いでいたことから立場を危ぶみ、子供を人質に出そうとした孫賁（そんふん）を説得し考えを改めさせた。<br />山越や黄巾賊の討伐で功を立てつづけ、年老い故郷が恋しくなると、中央から退き故郷の丹陽に駐屯し、山越と戦った。69歳で大往生した。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>三国列伝－呉</dc:subject>
<dc:date>2009-03-06T23:21:49+09:00</dc:date>
<dc:creator>ミニ・ゴールドバーグ</dc:creator>
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<title>三国列伝―呉・馬忠　　関羽を捕らえた男</title>
<description> 馬忠（ばちゅう）字は不明出身地不明（？～？）～経歴～潘璋（はんしょう）の配下。関羽を捕らえたことで史書に名を残した。それ以外のことは一切書かれておらず、孫堅の仇・黄祖（こうそ）を討ち取ったことで名を残した馮則（ふうそく）と同じである。余談だが同時期に蜀にも同姓同名の馬忠がおり、ずいぶん気まずい思いをしたのではなかろうか。ちなみに『演義』ではのちに蜀に寝返った糜芳（びほう）と傅士仁（ふしじん）によっ
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/bacyu.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/bacyu.jpg" alt="馬忠（極）" border="0" /></a><br /><br />馬忠（ばちゅう）字は不明<br />出身地不明（？～？）<br /><br />～経歴～<br />潘璋（はんしょう）の配下。<br />関羽を捕らえたことで史書に名を残した。それ以外のことは一切書かれておらず、孫堅の仇・黄祖（こうそ）を討ち取ったことで名を残した馮則（ふうそく）と同じである。<br />余談だが同時期に蜀にも同姓同名の馬忠がおり、ずいぶん気まずい思いをしたのではなかろうか。<br /><br />ちなみに『演義』ではのちに蜀に寝返った糜芳（びほう）と傅士仁（ふしじん）によって手土産代わりに殺されているが、糜芳も傅士仁も史実では寝返っていない。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>三国列伝－呉</dc:subject>
<dc:date>2009-03-06T23:20:18+09:00</dc:date>
<dc:creator>ミニ・ゴールドバーグ</dc:creator>
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<title>三国列伝―呉・孫瑜　　幻の蜀王</title>
<description> 孫瑜（そんゆ）字は仲異（ちゅうい）呉郡富春県の人（177～215）～経歴～孫堅の弟・孫静（そんせい）の次男。孫皎（そんこう）の兄。兄の孫（そんこう）が反乱を起こし、父が隠居したため跡を継いだ。自分の立場の危うさを知り、控えめに慎み深くふるまったため、誰からも慕われた。孫翊（そんよく）が暗殺され、代わって丹楊の太守となると、彼を慕い一万もの配下が集まった。軍事に明るく、周瑜と連携して山越の討伐にあたり、
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/son-yu.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/son-yu.jpg" alt="孫瑜（かまいたち）" border="0" /></a><br /><br />孫瑜（そんゆ）字は仲異（ちゅうい）<br />呉郡富春県の人（177～215）<br /><br />～経歴～<br />孫堅の弟・孫静（そんせい）の次男。孫皎（そんこう）の兄。<br />兄の孫（そんこう）が反乱を起こし、父が隠居したため跡を継いだ。<br />自分の立場の危うさを知り、控えめに慎み深くふるまったため、誰からも慕われた。孫翊（そんよく）が暗殺され、代わって丹楊の太守となると、彼を慕い一万もの配下が集まった。<br />軍事に明るく、周瑜と連携して山越の討伐にあたり、また魏と戦っては勝ち急ぐ孫権を諌めた。<br />一方で学問にも励み、大学者の馬普（ばふ）を招き、数百人の配下に学ばせ、自らも教えを請うた。孫瑜は軍中でも書物を手放さず、遠征のさなかでも朗読する声が絶えなかったという。<br />周瑜には絶大な信頼を受け、益州に遠征する計画を立てた際には、孫瑜を蜀の統治者として任せようと考えたほどだった。<br />しかし周瑜の急死により計画は頓挫し、孫瑜もまた39歳の若さで世を去った。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>三国列伝－呉</dc:subject>
<dc:date>2009-03-06T23:19:23+09:00</dc:date>
<dc:creator>ミニ・ゴールドバーグ</dc:creator>
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<title>三国列伝―呉・孫静　　控えめな末弟</title>
<description> 孫静（そんせい）字は幼台（ようだい）呉郡富春県の人（？～？）～経歴～孫堅の末弟。孫堅が董卓討伐の兵を挙げると、後方の守りを固め一族をまとめた。のちに孫策が王朗（おうろう）の守る会稽を攻めたとき、長江の対岸の砦に手を焼いていた。すると孫静は敵の備えが薄い査&amp;#28678;に橋頭堡を築くべきだと進言し、自ら先鋒を名乗り出た。川の水にあたる者が多かったため、孫静は瓶に水をくみ、それを煮沸させた。王朗はあらぬとこ
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/sonsei.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/sonsei.jpg" alt="孫静（極）" border="0" /></a><br /><br />孫静（そんせい）字は幼台（ようだい）<br />呉郡富春県の人（？～？）<br /><br />～経歴～<br />孫堅の末弟。<br />孫堅が董卓討伐の兵を挙げると、後方の守りを固め一族をまとめた。<br />のちに孫策が王朗（おうろう）の守る会稽を攻めたとき、長江の対岸の砦に手を焼いていた。すると孫静は敵の備えが薄い査&#28678;に橋頭堡を築くべきだと進言し、自ら先鋒を名乗り出た。<br />川の水にあたる者が多かったため、孫静は瓶に水をくみ、それを煮沸させた。王朗はあらぬところから一斉に煙が上がるのを見て、伏兵が現れたのだと動揺した。孫静はその隙を突いて奇襲をかけ、周（しゅうきん）を討ち取った。間もなく会稽は落ちた。<br />孫策は孫静を激賞したが、孫静は恩賞を断り故郷に戻った。<br />その後、孫権の代になると官位を受けて中央に上がったが、長男の孫（そんこう）が反乱を起こした責任をとり、隠居して先祖の墓を守ったという。<br /><br />なお他の息子たち、孫瑜（そんゆ）・孫皎（そんこう）・孫奐（そんかん）らはそれぞれ重職を務めたが、孫の孫である孫峻（そんしゅん）と孫&#32157;（そんちん）は呉の末期に国を傾けた独裁者となってしまった。長男だけがやけに外れの血統だったと言える。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>三国列伝－呉</dc:subject>
<dc:date>2009-03-04T20:34:12+09:00</dc:date>
<dc:creator>ミニ・ゴールドバーグ</dc:creator>
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<title>三国列伝―呉・顧雍　　呉を支えた月見草</title>
<description> 顧雍（こよう）字は元歎（げんたん）呉郡呉県の人（168～243）～経歴～呉の臣。陸氏、朱氏、張氏と共に呉の四姓と呼ばれる名門の出。蔡&amp;#37013;（さいよう）のもとで学び、必ず大成すると見込まれて、同じ読みの雍の名をもらい、字には蔡&amp;#37013;も驚くという意味の歎を使った。若くして孫権の目にとまり、重職を次々と歴任した。孫権が会稽の太守になったときは、孫権は任地に赴かず顧雍が実質的に太守として治めていた。孫権が呉
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/koyou.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/koyou.jpg" alt="顧雍（極）" border="0" /></a><br /><br />顧雍（こよう）字は元歎（げんたん）<br />呉郡呉県の人（168～243）<br /><br />～経歴～<br />呉の臣。陸氏、朱氏、張氏と共に呉の四姓と呼ばれる名門の出。<br />蔡&#37013;（さいよう）のもとで学び、必ず大成すると見込まれて、同じ読みの雍の名をもらい、字には蔡&#37013;も驚くという意味の歎を使った。<br />若くして孫権の目にとまり、重職を次々と歴任した。孫権が会稽の太守になったときは、孫権は任地に赴かず顧雍が実質的に太守として治めていた。孫権が呉王になると侯に封じられたが、寡黙であったため家族にすら告げず、妻子は他人からそのことを聞いてひどく驚いたという。<br />慎み深く無口で酒をたしなまず、孫権には「お前と飲むと酒がまずくなる。だが口を開けば必ず的を射たことを言う」と信頼された。<br />丞相の孫邵（そんしょう）が没すると誰もが張昭（ちょうしょう）が跡を継ぐと考えたが、孫権は顧雍を抜擢した。<br />地位を得ても顧雍の姿勢は変わらず、人を登用するときにはその能力が役職に適しているかだけを見て、私情を挟まなかった。さまざまな施策を上奏したが、用いられれば孫権の発案だと言い、しりぞけられれば決して他言しなかった。<br />呂壱（りょいつ）という奸臣が重用されたとき、顧雍は強く反対したため恨まれ、無実の罪で譴責された。だが呂壱が失脚し、顧雍が取調べを行うことになると、恨みを晴らすどころか穏やかな態度で公正に裁いた。<br />顧雍が病に倒れると、孫権は名医の趙泉（ちょうせん）に診察させ、のちに末子の顧済（こせい）を取り立てた。それを聞いた顧雍は「趙泉がもう助からないと診たてたから、息子を取り立ててくれたのだろう」と悲しんだ。76歳で大往生した。孫権は平服で弔問し、その死を悼んだ。<br /><br />『演義』ではまったく目立たないのにいつの間にか丞相になっている謎の人物だが、史実でも目立たず出すぎず、呉の屋台骨となった大人物であった。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>三国列伝－呉</dc:subject>
<dc:date>2009-02-27T20:48:39+09:00</dc:date>
<dc:creator>ミニ・ゴールドバーグ</dc:creator>
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<title>三国列伝―蜀・呂凱　　南中のことなら彼に聞け</title>
<description> 呂凱（りょがい）字は季平（きへい）永昌郡不韋県の人（？～？）～経歴～蜀の臣。雍&amp;#38355;（ようがい）が反乱を起こしたとき、王伉（おうこう）と協力し国境を閉鎖して侵攻を防いだ。やがて諸葛亮の討伐軍が雍&amp;#38355;を討つと「呂凱と王伉は断絶した地を守ること十数年、反乱軍に屈せず見事に守り抜いた。永昌の人々がこんなにも忠実だとは思わなかった」と激賞された。雲南太守に任ぜられ侯に封じられたが、のちに蛮族の反乱で
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/ryo-gai.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/ryo-gai.jpg" alt="呂凱（かまいたち）" border="0" /></a><br /><br />呂凱（りょがい）字は季平（きへい）<br />永昌郡不韋県の人（？～？）<br /><br />～経歴～<br />蜀の臣。<br />雍&#38355;（ようがい）が反乱を起こしたとき、王伉（おうこう）と協力し国境を閉鎖して侵攻を防いだ。<br />やがて諸葛亮の討伐軍が雍&#38355;を討つと「呂凱と王伉は断絶した地を守ること十数年、反乱軍に屈せず見事に守り抜いた。永昌の人々がこんなにも忠実だとは思わなかった」と激賞された。<br />雲南太守に任ぜられ侯に封じられたが、のちに蛮族の反乱で殺された。<br /><br />ちなみに『演義』では王伉の配下として登場し、南中の地理を細かく記した「平蛮指掌図」を諸葛亮に授け、遠征にも従軍している。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>三国列伝－蜀</dc:subject>
<dc:date>2009-02-27T20:46:48+09:00</dc:date>
<dc:creator>ミニ・ゴールドバーグ</dc:creator>
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<title>三国列伝―蜀・劉封　　報われない養子</title>
<description> 劉封（りゅうほう）字は不明長沙郡羅の人（？～221？）～経歴～劉備の養子。もともと寇（こう）氏の子だったが、荊州に入ったころの劉備には子がおらず、養子に迎えられた。※（とう）氏の誤りではないかという異説もある益州の攻略では諸葛亮、張飛らとともに長江を攻め上がり、20歳あまりの若さながら優れた武芸で多くの手柄を立てた。孟達（もうたつ）とともに上庸を攻略したのが人生の頂点、関羽からの援軍要請を断り敗死させ
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/ryu-ho.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/ryu-ho.jpg" alt="劉封（かまいたち）" border="0" /></a><br /><br />劉封（りゅうほう）字は不明<br />長沙郡羅の人（？～221？）<br /><br />～経歴～<br />劉備の養子。もともと寇（こう）氏の子だったが、荊州に入ったころの劉備には子がおらず、養子に迎えられた。<br />※（とう）氏の誤りではないかという異説もある<br />益州の攻略では諸葛亮、張飛らとともに長江を攻め上がり、20歳あまりの若さながら優れた武芸で多くの手柄を立てた。<br />孟達（もうたつ）とともに上庸を攻略したのが人生の頂点、関羽からの援軍要請を断り敗死させてしまい、仲違いした孟達は魏に投降。「跡継ぎの劉禅（りゅうぜん）が生まれて以来、あなたの地位は危うい」と誘われたが拒絶し戦うも、申儀（しんぎ）の寝返りで敗走した。<br />都に戻ると関羽の死と上庸を失った責任を問われ、また諸葛亮が劉備亡き後に勇猛な劉封が反乱することを恐れたため処刑された。<br /><br />『演義』では怒りに任せていったんは処刑を命じた劉備だが、劉封が孟達の誘いを断っていたことを聞き、処刑をやめさせようとしたが、時既に遅く劉封は斬られていた――という逸話が追加されている。<br />諸葛亮が率先して処刑させたことを伏せ、劉備の仁義の深さを描き、劉封の不憫さを強めるという一石三鳥の効果を上げる名演出である。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>三国列伝－蜀</dc:subject>
<dc:date>2009-02-27T20:45:18+09:00</dc:date>
<dc:creator>ミニ・ゴールドバーグ</dc:creator>
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<title>三国列伝―蜀・楊洪　　勉強嫌いの出世人</title>
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/yo-kou.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-40.fc2.com/g/o/l/goldberg1227jp/yo-kou.jpg" alt="楊洪（かまいたち）" border="0" /></a><br /><br />楊洪（ようこう）字は季休（ききゅう）<br />&#29325;為郡武陽の人（？～228）<br /><br />～経歴～<br />蜀の臣。<br />学問を好まなかったが、誠実で清廉な人柄で頭が切れ、国のことを自分のことのように心配する忠誠心や、継母に対する孝行の心を高く評価された。<br />はじめは劉璋（りゅうしょう）、のちに劉備に仕える。李厳（りげん）のもとで郡の役人をしていたが、彼が役所を移転させようとすると楊洪は「官職を奪われても反対です」と述べたため、その心意気を買った李厳は州に推挙してやった。<br />蜀軍が漢中を攻めると、前線の劉備は守備に残った諸葛亮に増援を乞うた。楊洪は「漢中は蜀の運命を握る要衝です。ためらうことはありません」と言上した。楊洪は遠征に従軍していた法正（ほうせい）の代わりに蜀郡太守を務め、見事に遂行したため、法正が亡くなるとそのまま太守に任じられた。<br />夷陵の戦いに敗れた劉備が危篤に陥ると、諸葛亮は見舞いのため都を空けた。その隙を突いて黄元（こうげん）が反乱したが、楊洪はすぐに察知し、兵を派遣させて防いだ。敗れた黄元が南方に逃れて力をたくわえることを人々は恐れたが、楊洪は「凶暴な黄元が受け入れられるはずがない。道を封鎖して行き場を失ったところを捕らえればよい」と語った。はたして黄元はすぐに捕らえられた。<br />若いころ張裔（ちょうえい）と親しかったが、張裔の子が過失を犯したとき弁護しなかったため楊洪は恨まれた。のちに諸葛亮が張裔を推挙しようとしたとき、楊洪は反対して向朗（しょうろう）を推した。人々ははじめ、楊洪は自分が推挙されなかったことを恨み張裔の邪魔をしたのだろうと思ったが、張裔が別の者ともいさかいを起こすのを見て、すべては張裔の逆恨みだと悟った。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>三国列伝－蜀</dc:subject>
<dc:date>2009-02-27T20:43:45+09:00</dc:date>
<dc:creator>ミニ・ゴールドバーグ</dc:creator>
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